2020/10/06 10:09
時は江戸、東海道五十三次の宿場である駿河国(するがのくに)の島田宿は、産業や文化発展の要となっていた大河、大井川の左岸にありました。当時東海道屈指の荒れ川だった大井川には橋がありませんでした。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれたように、街道筋の難所の一つとしてその名を知られていました。
大雨で増水すると川の往来が禁止される「川留め」になり、江戸から京都方面へ上る旅人が足止めされることで、島田宿はさながら江戸のような賑わいを見せていました。
島田宿での川留めの際に、旅人は旅籠で過ごし、郷愁を誘う夕刻のささやかな慰めとして、大井川流域で手に入る赤松の炭と砂鉄のほか、硝石や硫黄などの和火材(わびざい)を細い葦の管に詰めた花火を楽しんでいたそうです。
また、島田は戦国時代から江戸時代にかけて、幾人もの刀鍛冶の名工を輩出した土地でもあります。弊社発祥の地の付近(現在の地名:祇園町)は、島田鍛冶を代表する刀工一族が居を構えていた場所です。
中でも島田鍛冶の棟梁「義助(よしすけ)」は、最も名声が高く、初代義助は備前伝(※)の作風から後に相州伝(※)や美濃伝(※)を取り入れた作風へと、時代の流れを取り入れた研究熱心な刀鍛冶師でした。
刀鍛冶にとっても、刀の材料となる質の良い砂鉄と鍛錬に必要な高温で燃える赤松の炭が必要だったことから、ここに花火と刀の共通項を見ることができます。
同じ頃、鉄砲や火薬、そして観賞用の花火が伝来します。
古文書「駿府政事録」には慶長18年(1613年)、当時の中国の王朝、明の商人がイギリス人を連れて駿河国の徳川家康を訪ね、城内で花火を鑑賞したと書かれています。
定説「日本で最初に花火を観た人物は徳川家康」の根拠となる記録です。この花火が徳川家の鉄砲組を感化し、駿河国で花火の製作が始まったと言われています。
そして、義助へ。
この度、花火と縁の深い静岡は島田の地で、長い期間に渡り試行錯誤を繰り返し、かつての旅人たちが楽しんでいた花火の再現がようやく完成に至りました。
金色の小鈴の花火や柳の火花が舞うように咲く、可愛らしさと情緒を兼ね備えた「粋/華/極」と、鮮やかな鉄の金花が長時間楽しめる「神威 金/銀」の4種類です。
これらを総括したブランド名を
島田刀鍛冶の名工への敬意を表して「義助」と命名しました。
先人の知恵や技術を活かし、色彩や閃光の様相を現代調に仕上げた
和のこころを今に受け継ぐ、駿河伝統手持花火です。
どうぞごゆっくりご堪能くださいませ。
注
※備前伝:平安時代から室町時代にかけて、日本一の日本刀の産地として栄えた備前国(現在の岡山県東部)と、その近辺で輩出された刀工による日本刀の鍛錬法(※)
※相州伝:鎌倉幕府の成立を機に相模国(現在の神奈川県)で生まれた日本刀の鍛錬法
※美濃伝:美濃国(現在の岐阜県)で南北朝時代に生まれ、戦国時代に急激に繁栄した日本刀の鍛錬法
※鍛錬:叩いて伸ばし、折り曲げて重ね合わせ、さらに叩いて1枚にするのを繰り返して金属を打ち、鍛える工程